幸手市物語

四季と歴史が織りなす美しいまち

この物語は、埼玉県幸手市に息づく美しい四季の移ろい、江戸時代から続く歴史の重み、そして地域に根ざした文化の温もりを綴ったものです。桜と菜の花が競演する春の権現堂から、消えゆく七夕の伝統まで、時を超えて語り継がれる幸手の魅力をお伝えします。

四季の彩り
歴史の重み
人々の物語
自然・四季の美
権現堂桜堤の桜と菜の花
春の代表

権現堂桜堤 — 桜と菜の花の競演

春には約1,000本のソメイヨシノが1kmにわたり咲き誇り、堤は淡いピンク色の桜のトンネルに包まれます。桜並木の足元一面には黄色い菜の花畑が広がり、ピンクとイエローの鮮烈なコントラストが訪れた人々を魅了します。穏やかな青空の下、桜吹雪と菜の花の香りに包まれて歩けば、まるで絵画の中に迷い込んだような映像美が楽しめるでしょう。満開の桜と菜の花が織りなす光景は「関東でも屈指の美しさ」と称され、春の幸手を象徴する情景です。

この権現堂桜堤はもともと暴れ川といわれた権現堂川の堤防として築かれた歴史を持ちます。江戸時代から人々の暮らしを洪水から守ってきた堤は、幾度も修復や補強を重ねながら現在に至りました。戦後には一度失われた桜並木が地元有志の手で復活し、現在では約千本の桜が見事な景観を作り出しています。桜まつりの期間中は夜間ライトアップも行われ、闇夜に浮かぶ桜並木は幻想的です。春の日中とは異なる、提灯の柔らかな灯りに照らされた夜桜の風景は、訪れる人の心に深く刻まれる美しさです。

約1,000本のソメイヨシノが作る自然のトンネル、一面に広がる黄色い菜の花畑とのコントラスト、夜桜ライトアップの幻想的な雰囲気、そして関東屈指の桜の名所として多くの人々が訪れる人間ドラマ。すべてが重なり合って、この地に特別な物語を紡いでいます。

紫陽花の街道

梅雨の美

幸手あじさい街道

初夏の幸手市を彩るのは色とりどりの紫陽花です。梅雨time期の6月になると、権現堂桜堤の中央部には約100種類・1万株ものアジサイが雨露に濡れて咲き誇り、堤が鮮やかな紫や青、ピンクに染まります。桜のトンネルとはまた違った花の回廊が出現し、しっとりとした情緒が漂います。

薄曇りの日や小雨の日には、瑞々しい緑とアジサイの彩りがいっそう鮮やかになり、静かな美を湛えた風景を描きます。特に真っ白なアナベルが一面に広がる光景は圧巻で、辺り一帯が柔らかな光に包まれたような幻想的な雰囲気を醸し出します。

幸手市では「あじさいまつり」も毎年開催され、見頃の時期には多くの観光客が訪れます。雨の季節の静寂と美しさが、訪れる人々の心を穏やかにしてくれます。

夏空のひまわり

真夏の輝き

幸手ひまわり畑

真夏の幸手市では、太陽に向かって咲く向日葵(ひまわり)の群生が人々を迎えてくれます。毎年7月中旬から8月上旬にかけて「ひまわりまつり」が開催され、権現堂公園内には無数のひまわりが青空の下で黄金色の花を咲かせます。

夏の日差しをいっぱいに浴びたひまわり畑は活力にあふれ、空まで届きそうなほど背の高い花々が一斉に揺れる様子は壮観です。どこまでも続くひまわりの海と真っ青な夏空とのコントラストが美しく、観る者に元気を与えてくれます。

家族連れやカップルが写真を撮り合う微笑ましい姿も、夏の記憶として心に残ります。夜にはライトアップされることもあり、昼間とは違った幻想的なひまわりの表情も楽しめます。

秋から冬へ — 曼珠沙華の絨毯と水仙の希望

秋の彩り

曼珠沙華の絨毯

秋が深まり始める9月下旬から10月上旬、権現堂堤は真紅の花で埋め尽くされます。それは曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、別名ヒガンバナと呼ばれる花たちです。桜の木立の下一面に咲く赤い花々は、まるで絨毯を敷き詰めたような圧巻の光景で、約数百万本ともいわれる群生が秋の日差しに輝きます。

緑の草と落ち葉の中から炎のように立ち上がる赤い花は、どこか神秘的で物語性を感じさせます。彼岸花はその名の通り秋のお彼岸頃に咲くことから、古くから畏敬と親しみを持って語られてきた花です。

静まり返った早朝の林の中、朝もやに浮かぶ真紅の花々は幻想的で、夕暮れ時には西日を受けて赤く染まる彼岸花畑が息を呑む美しさを見せてくれます。

冬の希望

冬の水仙

冬の訪れとともに、権現堂堤では可憐な水仙(すいせん)が咲き始めます。寒風の中、凛と咲く白や淡黄色の水仙は、春を待つ静かな堤に清らかな彩りを添えます。1月から2月にかけての「水仙まつり」期間中には、約50万本とも言われる水仙が見頃を迎え、甘い香りがあたり一面に漂います。

冬枯れの景色の中に花が咲く様子は希望を感じさせ、足元の小さな花は繊細な生命の息吹を感じさせてくれます。澄んだ冬空の下、遠くには冠雪した筑波山や日光連山が望める日もあり、雄大な景色も楽しめます。

水仙の白と黄色の可憐な花弁が冬の日差しに透ける様子は思わず見入ってしまう美しさで、静かな美と希望に満ちた季節の象徴です。

行幸湖の大噴水と真紅の吊り橋

権現堂堤のすぐ近くに広がる行幸湖(みゆきこ)は、水辺の憩いスポットとして整備が進む県営公園エリアです。湖の中央には「権現堂大噴水(スカイウォーター120)」と名付けられた巨大な噴水があり、その名の通り高さ120フィート(約36.6メートル)もの水柱が空高く噴き上がります。青空に向かって一直線に舞い上がる水の柱と、陽光で生まれる水しぶきの虹は爽快でダイナミックな光景を見せてくれます。

噴水は埼玉県誕生120年を記念して作られたもので、そのスケールと迫力は見る者を圧倒します。夕暮れ時には噴水のシルエットがオレンジに染まった空を背景に浮かび上がり、湖面に映るリフレクションと相まってドラマチックな光景を演出します。夜間にはライトアップされることもあり、七色に彩られた水のショーが幻想的な美しさを見せてくれます。

行幸湖と権現堂堤を結ぶ外野橋(そとのはし)は、歩行者・自転車専用の真紅の吊り橋です。その優美なアーチ状の姿は湖畔の風景に溶け込み、どこかヨーロッパの公園を思わせるロマンチックな雰囲気を醸し出しています。橋の中央部には照明設備があり、桜まつり期間中の夜間にはライトアップされて、闇夜に浮かぶシルエットが水面に映り込みます。

外野橋は平成14年(2002年)に完成した比較的新しい橋ですが、構造は国内でも数橋しか例がない「2径間連続自碇式吊橋」という高度な設計です。斜めに張られた吊材が特徴的で、機能性と美観を兼ね備えたモダンアートのような美しさを持っています。昼間は真っ赤な欄干と青空・緑のコントラストが映え、橋上からは堤の花畑や湖全体を見渡せる絶好のビューポイントです。

文化・伝統・祭り
消えゆく伝統文化

まこもの馬づくり — 七夕に託す織姫と彦星の想い

7月7日は七夕ですね。幸手市の権現堂川地区には古くから受け継がれている七夕にまつわる伝統行事があります。それは「まこもの馬づくり」です。地域の人々が先生となり、小学5・6年生が毎年参加しています。この植物の名前がまこもです。イネ科マコモ属の多年草で、水辺に群生し、沼や河川、湖などで育ちます。成長すると大型になり、人の背丈ほどの大きさになります。

まこもの馬は"織姫と彦星が天の川を渡るときに乗った馬"というロマンチックな言い伝えがあります。頭にリボンがついているのが牝馬、ついていないのが牡馬だそう。短冊をつける竹に短い竹を一本横に渡し、その左右に雄雌の馬を向かい合わせに結び付けます。「天まで届きますように!」という願いを込め、竹を高々と掲げることで、馬に乗った織姫と彦星が夜空で再会できるのだとか。

学校と地域が連携して行っている「まこもの馬づくり」。ただの体験学習ではないのです。子どもたちにとって伝統に触れるだけでなく、交流することで、知恵や技術を受け継ぐ大切な学習。また、地域の大人たちにとっても、子どもたちから元気をもらえる場のようです。作られたまこもの馬は、七夕集会でお披露目されます。地域の人も招待され、願い事の発表や「たなばたさま」を歌います。

伝統文化存続の危機

この美しい伝統行事は、市内のある小学校でのみ実施されていますが、この学校があと数年で廃校になってしまいます。つまり、40年以上続くこの貴重な伝統文化が途絶えてしまう可能性があるのです。

地域の大人たちから子どもたちへと受け継がれてきた「まこもの馬づくり」の技術や、七夕への想い、そして何より世代を超えたコミュニティの絆が失われようとしています。刈り取り、選別、陰干しされたまこもを使って、真剣に作業する手元、完成した馬を高く掲げる瞬間、教える大人と教わる子どもたちの交流、七夕集会での願い事発表—これらすべてが、間もなく記憶の中だけの存在になってしまうかもしれません。

まこもの馬に込めた子どもたちの願いが叶いますように…☆
そしてこの伝統行事が永遠に語り継がれますように。

初山祭り — 赤ちゃんの健やかな成長祈願

幸手市には子供の成長を願う伝統行事も受け継がれています。その代表が「初山(はつやま)」と呼ばれる祭礼です。浅間神社(北2丁目)にて毎年6月30日と7月1日の両日に行われる初山では、その年に生まれた赤ちゃんを連れた家族が大勢詣でます。名前の由来は「赤ちゃんが初めて山に登る」ことからと言われ、この行事では赤ちゃんの額に朱色の社判(富士山の印)が押され、健やかな成長が祈願されます。

さらにお参りした赤ちゃんには、節のない真っ直ぐな人に育つよう葱(ネギ)家庭円満・内輪揉めのないよう団扇、そして登山の際喉を潤すための飴(タンキリアメ)が授与されます。これら縁起物を手にした赤ちゃんを家族が優しく抱く様子は、見ているこちらも笑顔になる微笑ましさです。

境内には富士講由来の小さな富士塚が築かれており、白装束に身を包んだ赤ちゃんを抱いた親御さんたちが、その塚に見立てた「山」に登ります。夏の陽射しの下、泣き声も元気いっぱいな赤ちゃんたちと、それをあやす両親、お守りの品を手に記念撮影する祖父母…幸せな家族の物語があふれる空間です。

初山の日は、浅間神社の境内がベビーカーや抱っこ紐で溢れかえり、地域の人々が「大きくなぁれ」「かわいいねぇ」と声を掛け合う温かな雰囲気に包まれます。夕刻には境内に露店も並び、お祭りとして大人も子供も楽しめる場となります。世代を超えた交流や、地域ぐるみで子供の成長を願う姿は、まさに幸手の優しさを象徴する光景です。

力強い太鼓の響き

夏祭り

大杉ばやし

毎年7月第一日曜日、幸手市高須賀地区の大杉神社では夏祭りが盛大に執り行われます。その祭りで奉納される伝統芸能が、「大杉ばやし」(別名「あんばばやし」)です。市指定無形民俗文化財にも指定される大杉ばやしは、大太鼓・小太鼓・笛・鉦(かね)が鳴り響く中、神輿の動きに合わせて「道中ばやし」や「乱れ囃子(みだればやし)」といった曲を次々に演奏する勇壮なお囃子です。

その音色には、五穀豊穣や疫病退散、害虫駆除や水害防止など、地域の繁栄と安全を祈願する想いが込められており、力強い太鼓の響きは観客の胸にも迫ります。当日、大杉神社の境内には法被姿の若者たちが集い、大太鼓を力いっぱい打ち鳴らす姿は迫力満点です。

夕暮れ時から夜にかけてクライマックスを迎えるお囃子競演では、篝火に照らされた演者たちの額に汗が光り、熱気に包まれます。クライマックスでは大神輿が担ぎ出され、「ワッショイ!」の掛け声とともに町内を練り歩き、お囃子の高揚感と相まって祭りの熱狂が頂点に達します。

獅子舞の伝統芸能

伝統芸能

ささら獅子舞

幸手市にはもう一つ、夏に奉納される伝統芸能があります。それが「ささら獅子舞」です。7月中旬の日曜日、千塚と松石の両地区に鎮座する香取神社でそれぞれ獅子舞が奉納されます。千塚香取神社の獅子舞は雄獅子・雌獅子・中獅子の3頭が登場し、「花輪くぐり」や「弓くぐり」といった華やかな舞を次々に披露します。

一方、松石香取神社の獅子舞にはひょっとこ(おどけたお面の男)や天狗も加わり、一行が地区内の家々を回ってそれぞれの家内安全・無病息災を祈願するという趣向です。「ささら」とは、獅子舞で使われる竹製の楽器(擦り音を出す道具)のことで、この獅子舞では歯をカチカチ鳴らすような独特の音色が舞に彩りを添えます。

赤や黒に彩色された獅子頭が笛太鼓に合わせて躍動し、時に観客に噛みつく仕草を見せれば、子供たちは歓声を上げ、大人たちは笑顔で見守ります。夕方、奉納舞が終わる頃になると、観客も舞手も一体になって輪になり、祭り囃子に合わせて踊り始めることもあります。

マリア地蔵と銀杏地蔵 — 信仰の証

マリア地蔵

一見すると赤ん坊を抱いた普通のお地蔵様に見える「マリア地蔵」も、幸手市ならではの興味深い文化財です。権現堂集落の農業センター敷地内から発見されたこの石像は、文政3年(1820年)の銘があり、右手に赤ん坊を抱いた珍しい立ち姿のお地蔵様です。

しかしその表面をよく見ると、「イメス智言(ちげん)」という謎の文字や、錫杖の頭部に十字架が刻まれており、さらには魚と蛇の彫刻が施されています。これらはキリスト教が禁止されていた江戸後期に、信者たちが仏教の姿に偽装して信仰した隠れキリシタンの信仰対象であったことを示唆しています。

このマリア地蔵は、市の有形民俗文化財にも指定されており、禁教時代の人々の信仰の工夫と熱意を今に伝える貴重な遺物です。静かな農村の一角にひっそりと佇む石像には、この地域にもそんな秘められた信仰のドラマがあったのだと、歴史の深さを感じさせてくれます。

銀杏地蔵

幸手市の東北端、西関宿地区にひっそりと佇む臨川庵というお堂の境内には、全国的にも珍しい「銀杏地蔵(ぎんなんじぞう)」様があります。推定樹齢500年ともいわれる大イチョウの樹幹に地蔵尊を刻み付けたもので、まさに自然と信仰が一体となった姿です。

この地蔵は子育て地蔵とも呼ばれ、子宝に恵まれない人や子供の健康を願う人々が古くからお参りしています。秋には銀杏の木が黄金色に色づき、その巨木自体がご神体のような圧倒的存在感を放ちます。

銀杏地蔵の前に立つと、長い年月を生き抜いた木の温もりと、刻まれたお地蔵様の優しいお顔に心を打たれます。地蔵の周囲には小さな草花が供えられ、地元の人々に大切に守られていることが伝わってきます。

「命を授かりたい」「健やかに育ってほしい」という人々の願いを500年受け止めてきた銀杏地蔵は、幸手の隠れたパワースポットとして静かな輝きを放っています。

幸手のグルメ — 味覚で伝える地域の物語

自然豊かな幸手市は食の魅力にもあふれています。江戸時代、幸手宿は利根川の舟運でも栄え、川魚料理も名物でした。その伝統は現代にも息づき、市内には老舗の鰻(うなぎ)店が数多く存在します。実は「幸手はうなぎの街」と言われるほどで、今でも幸手市内の飲食店の半数近くでうなぎ料理が提供されているほどです。

創業100年を超える老舗では、明治20年(1887年)創業以来守り継がれた秘伝のタレを使い、ふっくら香ばしい蒲焼きを提供しています。炭火でじっくり蒸し焼きにされた極上の鰻は、小骨まで柔らかくとろける口当たりで、鰻が苦手だった子供が大好きになるとまで評判です。創業以来継ぎ足し続けられたタレは130年以上の時を経て深みを増し、現当主で五代目を数えます。

うなぎ料理

創業100年を超える老舗では、明治20年(1887年)創業以来守り継がれた秘伝のタレを使用。130年以上継ぎ足し続けられたタレは深みを増し、現当主で五代目。炭火でじっくり蒸し焼きにされた極上の鰻は、小骨まで柔らかくとろける口当たりです。

水屋うどん

創業天保2年(1831年)の老舗製麺所が今も存続。初代松五郎が利根川の清水を江戸まで運ぶ「水屋」業から始まり、その名水でうどん・蕎麦作りを始めたのが起源。150年以上受け継がれる伝統の手延べ麺は、コシの強さと喉越しの良さが自慢です。

合鴨の燻製

幸手周辺には合鴨農法の農家が多く、上質な合鴨肉の産地として知られています。その合鴨肉を桜チップなどで香ばしく燻しあげた燻製は、程よい歯ごたえと濃厚な旨味が絶品。芳ばしい煙の中で吊るされた鴨肉が黄金色に輝く製造工程も美しいです。

白目桜(日本酒)

「白目桜」は、江戸時代に天皇家の御用米だったかつての幸手名産、白目米を復刻栽培し、幸手の蔵元で醸造した幸手ならではのお酒。権現堂堤の桜をイメージした上品な味わいで、透明感のある液体が光に透ける様子も美しいです。

歴史・文化遺産

日光街道・幸手宿 — 江戸の面影漂う宿場町

桜や花の名所から一転、幸手市中心部に足を延ばすと、日光街道第六番目の宿場町「幸手宿」の歴史に触れることができます。江戸時代、徳川将軍が日光参詣に向かう際の主要ルートであった日光道中と、将軍専用の御成道、さらに筑波道が合流・分岐する交通の要衝として整備されたのが幸手宿です。元和2年(1616年)に幕府から人馬継立の宿駅に命ぜられて以来、幸手宿は旅人で大いに賑わいました。

街道沿いには旅籠や茶屋が立ち並び、荷を運ぶ馬や籠を担ぐ人足の往来が絶えなかったと伝えられます。幸手宿は南から右馬之助町・久喜町・仲町・荒宿の4町で構成され、天保14年(1843年)の記録によれば宿場の長さ585間(約1.3km)、家数962軒、人口3,937人を数え、本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠27軒を擁する大規模な宿場町でした。これは城下町を除く日光道中では千住宿・越ヶ谷宿に次ぐ第3位の規模で、非常に繁盛していたことが分かります。

現在の幸手市内には、往時の面影を残す古民家や土蔵造りの商家が点在し、街道沿いを歩けば所々に歴史の息遣いが感じられます。毎月開催されている「幸手宿場あるき」では、地元ガイドとともにこの宿場町の史跡や古建築を巡ることができます。かつての問屋場(物流拠点)跡や江戸時代創業の和菓子屋などを訪ね歩き、当時の暮らしに思いを馳せる旅は、現代に残る江戸の情緒を感じさせてくれます。

石畳風の歩道や残された松並木なども残り、黒板塀に囲まれた旧家や格子戸の商家は、まるで時代劇の一場面に迷い込んだような風情を感じさせてくれます。現代に残る江戸の情緒が、過去と現在を結ぶ時空を超えた物語を紡いでいるのです。

格式ある本陣

本陣跡と明治天皇行在所

幸手宿を語る上で欠かせないのが、本陣知久家跡です。宿場の本陣を務めた知久家は、問屋場と名主も兼ねた豪商で、その屋敷は約1,000坪(3,300㎡)もの広大な敷地でした。明治天皇が1876年(明治9年)の日光行幸の際にこの知久家に宿泊した記録も残っており、建物の一部は「明治天皇行在所跡」として石碑が建てられています。

往時の本陣屋敷は残念ながら現存しませんが、門や蔵などにその面影を偲ぶことができます。かつて格式の高い武家や公家、そして明治天皇まで迎え入れた本陣の威風は、今でも石碑や史跡から感じ取ることができます。

現在この本陣跡地周辺には、明治天皇が休憩された御座所の場所を示す碑や、当時の防火用水「姿見の池」跡などが残り、歴史散策の見どころとなっています。本陣跡に立ち、明治天皇の行幸に思いを馳せれば、歴史ロマンを感じることができるでしょう。

格式ある古刹

聖福寺と勅使門

宿場町の北端近く、旧日光街道沿いに佇む聖福寺(しょうふくじ)は、1394年~1428年頃の応永年間に開山された浄土宗の古刹です。ここには「勅使門」と呼ばれる唐破風造りの立派な山門があり、江戸時代、徳川将軍が日光東照宮参拝(社参)の往復や、天皇の名代で東照宮例大祭に赴いた勅使(例幣使)の帰路に、この寺が休憩所として利用されました。

格式ある勅使門は、将軍様や勅使だけが通ることを許され、一般の者は決して潜れなかったという伝承が残っています。現在でも門の彫刻や構造に当時の威厳が感じられ、往時の荘厳さが伝わってきます。

境内には阿弥陀如来を本尊とし、運慶作と伝わる観音菩薩像が安置されています。また、江戸後期の漢学者・金子竹香の顕彰碑や、松尾芭蕉と弟子の河合曾良が詠んだ句を刻んだ句碑などもあり、歴史文化の香り高いスポットです。樹齢を重ねた大銀杏や季節の草花が彩る境内は静謐で、心落ち着く空間となっています。

権現堂堤の治水史と桜の歴史

天正4年(1576年)に初めて権現堂堤が築かれました。しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により、部分的に作られていったものが、後に、つながり権現堂堤になったとされています。この権現堂川は、暴れ河川としても知られ、宝永元年(1704年)に、権現堂堤が始めて切れてより、幾度も決壊し、ここが切れると、遠く江戸まで害が及ぶと言われ、大切に管理されていました。

天明6年(1786年)権現堂堤木立村の波堤により、濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難したが、それも根こそぎ流され平野村の須賀間に流れ着き、無残にも75名という流死者が出ました。現在でもそのときの犠牲者の供養が行われています。また、享和2年(1802年)権現堂の月の輪堤部分が決壊したときに、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ました。母娘の順礼の悲話はこのときのものとされております。

大正5年には、巣元の桜が植えられ、これを機に大正9年には、3,000本の桜の苗木が6kmにもおよび植えられました。しかし、時代の流れとともに大正14年には、権現堂川栗橋流頭付近が締め切られ、昭和2年には、権現堂川が関宿において、突き止められてしまい、廃川の一途をたどるようになりました。

悲しい事に、昭和20年の敗戦により、権現堂堤の桜は燃料として伐採されてしまいましたが、元の桜堤にしたいとの思いで、昭和24年に3,000本の桜の苗木が植えられ、その中の約1,000本が現在残っております。現在の美しい桜並木は、戦後復興への人々の強い願いと努力の結晶なのです。

順礼母子の伝説 — 権現堂堤に眠る物語

権現堂堤には、美しい花景色の裏に人々の心を打つ伝説が語り継がれています。今から約220年前の江戸時代後期、享和2年(1802年)のこと。長雨により堤防が度重なる決壊を起こし、人々は必死に修復工事を続けていましたが、豪雨のたびに一夜で堤が崩れる有様でした。村人たちが疲弊する中、旅の母娘の順礼(巡礼者)が堤を通りかかります。

母親の順礼が堤の決壊箇所を覗き込み、「これほど繰り返し切れるのは龍神の祟りかもしれない。人身御供を立てねばなるまい」とつぶやきました。誰もが息を呑む中、その母は「私が人柱になろう」と念仏を唱えて荒れ狂う濁流に身を投じ、驚いた娘も後を追って川に消えたのです。

不思議なことに、その犠牲の後は水が引き、難航していた堤の工事も見事に完成したと伝えられています。村人たちは哀れな母娘の霊を弔うため、昭和11年(1936年)に「順礼の碑」を建立し、明治期の日本画家・結城素明による母娘順礼の像を刻みました。現在も堤の中央付近に供養塔と並んでひっそりと建つ石碑には、母が抱いた覚悟と娘の愛が刻まれているようです。

静かな桜並木の片隅に立つこの碑は、華やかな花々とは対照的な、深い余韻を残す存在として、幸手の歴史に刻まれています。夕暮れ時、薄紅色の桜吹雪が舞う中で碑を見ると、母娘の魂が今も堤を見守っているかのような気持ちになります。この物語は、治水事業の困難さと人々の犠牲的精神を後世に伝える貴重な伝承として、現在も語り継がれているのです。

標石と道しるべ — 日光街道の道標

江戸から日光へと至る旧街道沿いには、旅人の道案内となった数々の石碑や道標が残されています。幸手市外国府間(そとごうま)地区には、「日光道中と筑波道の分岐点」に建てられた石造りの道しるべが現存しています。安永4年(1775年)建立のこの道標には、正面に「右つくば道」、左側面に「左日光道」、右側面に「東川妻道・まいばやし道」と刻まれており、江戸時代の旅人たちに方向を示した貴重な史跡です。

苔むした表面に刻まれた文字の風格からは、長い歳月を経ても失われない歴史の存在感がにじみ出ています。「右に行けば筑波へ、左に行けば日光へ…」と、この道標の文字をたどることで、当時の旅人気分を味わうことができます。周囲には現在ものどかな田園風景が広がり、過去と現在が交錯する不思議な時間旅行を体験できる場所です。

街道歩きの途中でふと現れる道標は、旅の分岐点や物語の転換点を象徴する存在として、幸手宿場あるきのガイドマップにも必ず紹介されるスポットです。現代の案内標識とは異なる、手作りの温もりと歴史の重みを感じさせる道標は、歴史好きには堪らない魅力を持っています。

高札場跡(触れ書きを掲示した場所)、一里塚跡(街道の里程を示す目印)、問屋場跡(物流拠点として機能)、姿見の池跡(本陣の防火用水)など、幸手には江戸時代の史跡が数多く残されており、それぞれが当時の人々の暮らしや知恵を現代に伝えてくれています。

アクセス・年間スケジュール

アクセス情報

電車でお越しの方

東武日光線「幸手駅」より朝日バス「五霞町役場」行きで「権現堂」下車、徒歩すぐ

お車でお越しの方

東北自動車道「久喜IC」より約20分
圏央道「幸手IC」より約10分

住所

〒340-0103 埼玉県幸手市内国府間887番地3

年間イベントスケジュール

水仙まつり 1月上旬〜2月上旬
桜まつり 3月下旬〜4月上旬
あじさいまつり 6月〜7月
初山 6月30日・7月1日
まこもの馬づくり 7月7日前後
大杉ばやし 7月第一日曜日
ささら獅子舞 7月中旬の日曜日
ひまわりまつり 7月中旬〜8月上旬
曼珠沙華まつり 9月下旬〜10月上旬